あの日あの時
別府市 岡野芳香
昭和20年8月9日午前7時、工場の作業開始の時報と共に、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴る。工員たちは蜘の子を散らすように先を争って防空壕に待避した。我先にと待避したのも無理はなかった。7月29日三菱造船所が襲撃された際、製缶工場に八畳位の大きな爆撃の穴があき、その恐ろしさや威力の強大さを知っていたからである。
私は当日の防空当番で、迎賓館の庭園で待機することとなった。「前線へ船を」のスローガンに、増産また増産のため、徹夜の作業に追われ、芝生に寝転ぶやいなや、工員たちは殆ど眠っていた。11時すぎ、何ともたとえようのない閃光が走った。間髪を入れずに物凄い爆発音が轟き、耳は全く聞こえなくなり、どうしたのだろうかと思っていると、砂煙が一面にもうもうと立ち込めた。眠っていた筈の工員たちは、どうやって逃げたのか、履物や帽子があたり一面に散らばっている。逃げ遅れたのは私と二、三人の者だけであった。
県庁や駅は一瞬にして、黒煙と共に窓から炎を吹いている。浦上方面にかけては、真黒な煙が上がっている。防火当番は、全員集合を命ぜられた。私は徴用工員と、朝鮮よりの動員者を引率して、三菱兵器工場へ負傷者の救出に向かうよう命令された。
上空には敵か味方か不明な飛行機一機が、ブンブンと音をたてて旋廻しているため、壕の外には出られない。負傷者の腕でも触ったのだろうか、「熱いっ」と言う声に振り向くと、手首が真黒な手袋をはめたようになり、上腕部は真赤に焼けただれていた。こんな負傷者が、担架で次から次と運ばれてきた。ようやく陽も落ち暗くなって壕を出た。
朝日町の山手を迂回して行くと、両側の家という家は目茶目茶に壊れ、瓦やガラスは粉々に散って、道らしい道は見当たらない。幸町の川にそって進むと、異様な臭と煙の中から子牛がうめくような人のうめき声が聞こえてくる。橋の欄干にたてかけた木が往来を妨げているので、片付けようと近寄ると、燃えている。炎の明かりでよくよく見ると、それはなんと人の死体である。硬直して木のようになっていたのである。更に進むと戦意喪失の狙いか、たくさんなビラがまかれている。朝鮮からの動員者がそれを拾って、朝鮮語で話し合っている。「早く捨てろ、またと拾ってはならないぞ」と強い口調で命令した。
夜半すぎ、やっとの事で三菱兵器の庭まで辿りついた。全員点呼の後壕内で夜を明かすことにした。懐中電燈で中を照らすと、既に二、三人の負傷者が収容されていた。夜明けをまって救出作業に掛かった。全壊した工場のあちこちでくすぶりつづけている。昨夜通った路上にはたくさんな屍体が、照り続ける熱い陽射にさらされている。魚の目が腐ったような目をして、救援隊の足音を追う人、胡瓜を握ったまま死んでいる人、火傷のためかたくさんな人が、汚いマンホールの中に避難している。
工場の柱に使われていた山型鉄鋼で、女性が後ろから袈裟掛におし潰され目が飛び出て即死している。荷馬車を曳いて作業中だったのか、馬もろともに即死している人。直径15センチ位の杉が根元から吹き倒され、あたかも人手で並べたように行儀良く倒れている。
山の横穴に避難していた女学校の挺身隊員救出にあたった。「アンタが先に」、「私は軽いからアンタが先に」と、お互いに友を庇いながら、なかなか担架に乗ろうとしない。我先に助けを求めるのが常であるのに、互いに友達をいたわる麗しい姿に、熱いものが胸にこみ上げ涙が頬を伝わる。
負傷者を長崎本線まで救出したが、何時列車が迎えに来るのか全く判らない。少しでも早く手当てをと焦るが、足の踏み場も無いほどたくさんの負傷者が汽車を待っている。中年の女性が担架にうつぶせになり、むしろでおおわれている。「アンタ元気を出さんばね」と、むしろをめくってみると、何とその人のおしりにタル木の木片が突き刺さっていたままである。
手足の動ける人は、安全な場所を求めて線路ぞいにやってくる。頭の上から足の裏まで真赤になったパンツ一枚の男が、どこでもらったのか、握り飯を掌にのせ、枕木の上を素足で、一歩歩いては二本の足を揃え、また一歩とやってくる。果たしてどこまで行けるのだろうか。無事であることを祈らずにはいられなかった。
「おーいっ」と呼んでも誰一人答える人もいない。焼け野原となった中を、生き残った一羽の鶏が餌を啄んでいる。何時まで餌を捜せるだろうか。木陰では男の人が、亡くなった家族であろう、二、三人の死体を並べて、経本を片手にお別れのお経を唱えている。思わず念仏を唱えて通る。こんな地獄が、修羅場が二度とあってはならない。
四十年を経て、思い出す度に全身に鳥肌が立つ。この悲惨さはとても筆舌をもって尽くしきれるものではない。御国のために戦死された兵士や、犠牲になられた数多くの御魂のご冥福を念じ、平和な世界、平和な日本であるように、堅く強くお誓い申し上げます。