大分県被団協

あの日長崎の空

東国東郡国東町 田口 通

原爆被爆体験から41年の歳月が流れましたが、昭和20年8月9日、あの悲惨で残酷な長崎の空を思い出すと、心が痛み背筋が寒くなる気持ちでいっぱいです。しかし被爆体験の実相を語り訴え、子供や孫たち、また全世界の人類が永遠に戦争のない、平和な毎日で暮らせるよう祈り、ペンを握ります。

8月9日、長崎の空は雲一つない真夏の暑い日であった。当時私は16歳の少年で、三菱造船所の養成工でした。週2日は学校教育、4日は工場での実習であった。

その日は工場実習日で、造船所内の飽の浦町器具工場で、人間魚雷の作業に従事していた。午前11時すぎ、突然地球を溶かすような熱光線で目がくらみ、気が遠くなると同時に、地面が裂けるような爆発音と爆風熱が頭上から襲ってきた。無意識に地面に伏せ、気が付いたら破壊物と砂煙で辺り一面は真暗闇、一寸先も見えず手探りで近くの避難場所に逃げ込んだ。しばらくして自分の体に痛みを感じ、右腕と後ろ首筋に屋根のスレート瓦が刺さっているのに気づいたが、幸い軽傷であった。

窓際にいた人はガラスの破片が全身に刺さり、頭や顔は血だらけ、助けを求めたり、痛さで走り回る人など、防空壕内は生き地獄となった。私は気分が悪くなり外に出ると、建物は飴のように押し潰され見る影もない。

そのうち港の向かいの長崎県庁や長崎駅など、到る所から火災が起き、浦上町方面は黒煙で空が真黒、私か下宿している稲佐町方面も火の海に見えた。

下宿屋のおばさん(古賀千代)が心配になり、同僚と二人で家に急いだ。途中の平戸小屋町や水の浦町は火災は起きていなかった。防火用水の水を全身にかぶり、下宿屋へと急いだ。家がない。確かこの辺と思うが一面焼けているので区別がつかない。やっと確認できたので、おばさんを捜そうと焼け跡に踏み込んだが、灰が熱くどうしようもなかった。日は暮れたし、一旦工場に帰り、壕内で一夜を明かした。

翌日工場から炊出しの握り飯が支給された。早速おばさん捜しに焼け跡に急いだ。幸いおばさんは稲佐山に避難して無事だった。山の頂上から市内を見渡すと、昨日まで所狭しと立ち並んでいた建物はすべて灰となり、荒れ果てた砂漠のように広く見えた。

三菱兵器工場に同県人の友達がいることを思い出し、もしかしてと不安を感じながら宇都宮君と二人で捜しに行く。市内の道路はとても歩けない状態なので、浦上川を渡り鉄道線路沿いに歩いた。日頃は水面が見える浦上川には、焼けただれた人が水も見えないほどに重なり合って倒れ、アツイ、アツイ、水をくれ、水をくれ、助けてくれ、とうめき声で助けを呼んでいる。そんな声を聞く度に自分の傷の痛みを感じた。

爆心地に近づくにつれ、悪臭と熱気で私も一度倒れた。行く先々は死体の山、それを踏み越えるようにして電車通りに出れば、電車は焼け焦げて台車のみ、また荷馬車は馬も人も黒焦げ、熱さであおられた人は数倍の体に腫れ上がり、皮膚はむけ、私たちに向かって手を差し延べ、助けてくれと近寄ってくる。火傷で耐え切れなくて防火用水タンクに全身浸かり、かすかな声で助けを求める人、手足の硬直した子供を背負い、訳の分からない言葉で泣き叫びながら擦れ違って行く母親、行き詰まりの路地で逃げ場を失い、抱き合って死んでいる親子の遺体の数々。こんな姿を見たとき、私たちはよくも生きていられたなあと思う。兵器製作所付近は見渡す限りの焼け野原で、人影など見当たらない、友達は原爆の犠牲となられたことを後日知った。

数十日後に長崎港に進駐軍が入港し、上陸と同時に市内は独り歩きもできない緊張の日が続いた。九月下旬ごろ造船所を退職して大分へ帰った。その後は恐怖症にかかり、停電の後急に明かりがついた時の光や、雷雨の時の光と音は原爆を思い出し、今でも当時の惨状が心の底に焼きついている。

私たちは身をもって、あの悲惨で残酷な姿を見てきた世界で唯一の被爆体験者です。その被爆者も年々高齢化し、被爆体験も次第に風化されています。しかし、被爆者は、今なお病気や生活に苦しみ、精神的な苦痛は益々深刻になっています。人間が人間を殺すような戦争は、私たちの体験で十分です。最後に戦争犠牲者、被爆犠牲者の御冥福をお祈り申し上げ、私の体験談とします。

 

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