大分県被団協

世紀の嵐

大分市  大城 仙助

1 嵐の前の静けさ 昼夜の別なくあの不気味なサイレンの音が、今日も街にも村にも一斉に響き渡っている。祖国の姿は日を追って苛烈を極めていた。見つめる新聞の記事にも何一つ明るいものはなく、ただ情報を伝えてくるラジオだけは、日本内地の各都市が受けるアメリカ軍機の爆撃の模様を電波に乗せているに過ぎなかった。

東京、名古屋、京阪神の大都市はもちろん、裏日本の小都市まで爆撃の目標とされていた。その中で、ただ広島の街だけは家屋を取り壊す疎開こそ行われていたが、娯楽施設等は他の街では見られないほど数多く残っており、どれほど市民の心に安らぎを与えてくれていたか知れないものがあった。しかし早晩の内には、この街もアメリカ軍機の洗礼を受けるであろうことは皆想像していた。

昭和20年8月6日。水の都広島の幅広い河口近くには、今朝もポンポン船の鈍い音が、ともすれば敵機の爆音と間違えられそうになって、ポーオッ、ポーオッと白い煙を吐きながら澄みきった夏空の空気を揺るがせ静かに明けて行った。

「お早う]

「お早うございます、お早うございます。」

寝室から起きて来たばかりの川島曹長は、昨夜深更までの敵機の警戒で、疲労と睡眠不足の腫れ上がった眼をこすりながら、事務所に入ってきた。ここは吉島町にある第二総軍司令部の直轄飛行場のわずか十数名しか居ない飛行班である。何時も早起きの彼に似合わず、もう皆起きている一同に朝の挨拶を交わしながら……。

「松島は見えんが、まだか」二コニコしながら川島は、戦友の誰に聞くともなく尋ねた。

「松島の奴は今良い夢でも見ている頃ですよ。ハハハ……」若い少年飛行兵出身の白井軍曹の声である。松島曹長の朝寝坊は、この飛行班でも名の通ったもので、自他共に公認の格好であった。

2 炸裂

朝食も先ほど終わった。今日は飛行機の出動計画もないので、空中勤務者も地上整備員も皆心のゆとりを見せ、時折入って来る敵機の情報を聞くともなく自由な朝のひとときを過ごしていた。

「広島地区警戒警報発令、続いて情報!8時○○分 B29二機広島東部を東北進中!」

ラジオのアナウンスの声が何時ものように流れて来る。

「警戒警報か。ナニB公二機か。大したことはないナア…」今起きて来たばかりの松島曹長が言った。誰もこれと同じ思いでいたのであろう、これに答える者は一人もいなかった。さっきまで哨戒飛行をしていた友軍機の爆音も今は全くなく、静まりかえっていた。

「おかしいナア! 警報はさっき解除になったのにまだ爆音が聞こえるじゃないか」

「ヤア! 見える、見える、あそこを見ろ」 大空暮らしの飛行時間の長い田辺少尉の索敵は、さすが見事なものであった。一同は彼の指差す東の空を遥かに見上げれば、いつものボーイング29が、雲一つない晴れ渡った朝の太陽に、キラッ、キラッと燦めきながらその姿をくっきりと晒け出して見えた。

神ならぬ身の誰が20世紀の恐るべき新兵器が、これに積み込まれている事を予測し得たであろうか。 突然中空に炸裂するピカリの一閃! 朝の太陽を欺くようなあの一瞬の光芒!

幾年、幾百年もの長い年月をかけ、営々として先人が築き上げた文明も文化も、そして多くの人命と家、財産もこの唯一発の科学兵器で、一瞬の内に雲散霧消してしまったのである。

命だけは取り止めた傷ついた幼児は、母を求めて泣き叫び、全身大火傷の若い母親は、愛児を探し求めて我が身の苦痛も忘れて半狂乱、火傷と裂傷で逃げるのに精根尽きて道路にうつ伏している顔面蒼白な若い産業戦士、今にも消えようとする魂の中からも、微かに学友の名を呼び合う学徒動員の少女たちの断末魔、これがたちまち変わる広島の街の阿鼻叫喚の姿であった。

3 爆撃の後に瞬く黄金星

寝る舎もなく、飛行場の突端にある河の堤防を利用して造った防空壕の中でその夜は寝ることにしたが、誰も壕の中に入ろうとする者はいなかった。

広いこの飛行場には、全身焼けただれた体を支えながら足を引きずるようにして、やっとの事で辿りついた人達で溢れていた。時間の経つにつれて傷口は化膿し、血生臭い臭気があたり一面に漂い、眠れない一夜であった。

炎々と燃えしきる広島の天空を、黄金色に染めているその中に星座の群れは悠久を誇るように、地上の出来事などとは無縁の表情であった。

火勢は夜になって益々激しくなり、黒煙が空高く立ち登っているのは、恐らく対岸の宇品港近くの燃料倉庫に引火したためであろう。

「一体何爆弾であろうか…」「全く凄い奴を使いやがったもんだ」

「風の便りに聞いている原子爆弾とかいう新兵器らしいね」

「フン…(誰も声が出ない)」「ウン畜生、今に見ておれ…」

誰々の会話ともなく、月光に照らされながら、まだ昼間の興奮からさめきらないで、青白く見える戦友の顔には、何かの決意がみなぎっているように見えてならなかった。

「兵隊さん、お水頂戴! オミズちょうだい! 兵隊さん…」

あの大火傷の身体で、どこをどうしてここまで辿りつくことができたのか想像もつかない。そんな重傷者が最後の声を振り絞って求めるあの「水! 水! 水!」の声は、42年経った今も耳の奥からはっきりとよみがえって来て、胸の張り裂けるものを覚える。

このように水をほしがるのには、空の猛者達もどうする事もできなかった。兵隊達は「大火傷」の患者は水をほしがるものであるが、極力これは避けねばならないことと、衛生教育で教わっているためであった。

「よし、俺が行ってくる」あの朝寝坊でひょうきん者の松島が、真っ先になって隣の兵舎へと出掛けて行った。やがて川島上等兵も彼の後に続いた。人の足音を聞き付けたためであろう「お水頂戴」の声は益々大きくなっていった。

「今すぐ持ってきてあげるから」と板張りの床に所せましとうずくまり、息絶えようとしている負傷者の耳元に、優しく言い聞かせるのであった。水道は使えないので彼らの水筒の水を分け与えた。

「少しずつ飲まなきや、身体に悪いんだよ」

「ハイ……」

火傷の割には意識がはっきりしており、兵隊の注意を素直に聞いていた。二人は責任を果たしたような満足感に浸りながら帰って来た。

「オイ!あそこを見ろ。また燃え移ったらしいぞ!」

「全くしゃくにさわるナア!」

戦友の寝息が微かに聞こえ、二人の話もいつしか絶えた。

太田川の河面に映る月の影はいよいよ冴え渡っていた。

殉難者の御冥福をお祈りします。

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