大野郡三重町 宮崎 輝男
また、今年も41回目の平和記念日が近づいてきました。「喉もとすぎれば熱さ忘れる」と昔からの諺にもありますが……。戦後41年、この前の週刊誌に、米国のレーガン大統領は「原子爆弾を広島、長崎に使用したために日本人の大勢の命を救うことができた。原子爆弾を使わなかったら日本人種は絶えただろう」と言ったという記事が載っていました。
日本人は神風が吹くことを信じ、最後の一人になるまで戦ったかも知れません。レーガン大統領の記事を読み、なるほどあの時、原子爆弾が落とされ戦争が終わったから、今の平和があると思われる方が多いのではないでしょうか。
しかし、無惨にもあの一発で尊い命を犠牲にされた大勢の方を忘れないでください。昭和20年8月6日は朝方4時過ぎまで敵機の来襲で避難し、ほとんど眠らず会社、工場へと出勤途中でした。8時15分、一瞬ピカーッ、ドーン。それはすさまじい大音響と共に、家はガタガタと崩れ落ち、硝子は粉ごなになって八方に飛び散り、汽車や電車も横倒しになるもの、線路をはずれて突っ込むもの、わずか十分間もたたぬうちに八方から火の手があがり、一面火の海となり、助けを求める者、泣き叫ぶ者、逃げまどう者、一瞬にして火災地獄の世界となりました。広島市だけで20万人の者が焼死、火傷、怪我により死んだといわれます。
昨年の国勢調査で三重町の総人口は1万8千751名、三重町の人口の約11倍の人の尊い命が失われたことになります。その当時は原子爆弾と言う名もわからず、ピカーッと光って、ドーンと大きな音がして、大勢の大が一度に死んだので、新兵器ピカドーンが落ちたと恐れられました。ピカドーンが落ちてから、毎日毎日燃え続け広島機関区を最後に一週間燃えました。
私は幸いと言いましょうか、旧陸軍幼年学校におりましたので山が近く、また屋内で被爆したので、全身怪我はしましたが火傷もなく、また二階に居たため上に乗っかかった材木等が少なく、自力で脱出することができました。外に出ると向こうに軍の幹部の人がいて、「早く逃げろ」「火が来たぞ」「東練兵場に集合しろ」と大きな声で叫んでおります。見ると、至る所から火が出て物凄い勢いで燃えて来ています。その火の間を縫って山に逃げることができました。
町は一面火の海です。夕方、東練兵場にようやく辿りつきました。大原グランドの何百倍という広い練兵場が、死人や怪我人でいっぱいです。その間を通り抜け中ほどまで行った所で、同じ部隊の者と一緒になりましたが、468名の部隊員の内、僅かに16名だけが集まりました。その中でも、自由に動ける者は私と田村という20歳の兵隊と2人でした。残り14名の者は、火傷や骨折等の怪我人で、医者もおらず薬もなく、ただ苦しむばかりです。食事は海軍、陸軍の軍人が応援に来て炊出しをし、一人に「ムスビ」2個宛配ってもらいました。
明けて7日から田村君と2人で、行方の分からぬ者の捜索に出なくてはなりません。最初に営舎だった焼け跡に行きますと、材木で足腰を挟まれ動けない者、頭に長い釘が刺さった者、自力でどうすることもできずそのまま焼け死んだのだろう真っ黒に小さくなった焼死体、356遺体。名前も何も全然判りません。焼け跡に残った「タタミ」半分くらいの「ゴミ」焼却炉のせまい中に、4名の半焼けになった死体がありました。

火の中で熱さに耐えられず、無意識の内に中に入ったのでしょう。手足はふくれて皮が破れ、黄色い油がのぞき、見るも無惨な有様でした。ここで376遺体を確認。次は広島城を囲んでいる濠に来てみると、普段は蓮の葉が一面に繁り、緑一色で食用蛙の多い沼が、一変して緑一つなく、水面は死んだ魚、蛙、鳩、雀が一面に浮き、真っ白く変わっていました。また濠の中央には、軍馬が4頭、熱さのあまり水の中に逃げたのでしょう、水に浸かっているところから上は毛も皮も焼けて全身赤くなって死んでいました。爆風を受けると、着ている服も着物も、真っ白い物は残るが、色の付いた物は光の熱で焼けてボロボロになり、落ちて裸になります。
顔や手の出ている部分は皮膚がむけて垂れ下がり、それが太陽の光にあたると、血がにじみでて色が黒くかわり、腫れて人間の顔には見えなくなります。またその場は生き残っても、ウラニュームガスにより40度を越す高熱が続き、頭髪は抜けてツルツル坊主になり、普通の人は1カ月か2カ月で死ぬ恐ろしい爆弾です。そのような爆弾は二度と再び使用させてはなりません。
現在被団協とか各団体が核保有国に対し、核の廃絶を訴えております。皆様方も御声援のほどよろしくお願い致します。