大分県被団協

原子雲の想い出

大分郡庄内町  幸野 真一

魂の底から呪いの手でかき回すような不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響き、何度かの非常呼集が夜がやっと明けた。

昭和20年8月6日の朝、広島市のその日は朝から焼けつくような暑い天気だった。警戒警報になったので軽装な姿で私は朝食をするため、部隊の変電室から内務班に帰った。ちょうど下士官候補の早朝訓練の終わっだ現役の初年兵と、食事をしているときだった。

不気味な青紫色の強烈な光が光った瞬間、百雷、いや何千倍にした雷鳴が腹の底に響く、ドーンという轟音がしたとき、我々の目に入ったのは兵舎の板塀の倒れる姿だった。単機で侵入して来たB29の爆弾が兵舎の裏側に落ちたのか。次は我々の真上か兵舎の前側だ、とすればこれが最後かも知れないと、一瞬走馬燈のように思いをめぐらしていた。

食卓の下にたたきつけられるように飛び込んだものの、今の今まで明るかった内務班がまるで黄昏時のような薄暗さで、周囲がぼおっとしているようだ。

隣の食卓の下に入った川田一等兵が、血の吹き出ている左手の甲を悲壮な顔をして押さえている。

「川田、大丈夫か」と、私は叫んだ。

「大丈夫であります」と、答えているが血は止まりそうもない。なんとかしてやりたいとにじり寄った時、外に立哨でもしていた兵隊が、 「敵機なし、全員退避」と、叫んだ。

すかさず私は先任者意識でか、 「舎前の防空壕に全員退避せよ」と、命じた。

川田を押し出すようにして舎前の防空壕に入った。空を見上げると機影は見えない。私は変電室の当直中だった事に気付き、初年兵に川田を医務室につれていくよう命じて変電室にかけ登った。

変電所の屋外変圧器は爆風で倒潰寸前の傾斜で、母線はアメ細工のように曲がり、三線中どれがどれやら判らない混線状態であった。受電は全く不可能である。直ちに小隊長に報告すべく、配電盤室に入った。助手の石井二等兵が、「上等兵殿血がついております。負傷しましたか」と心配している。

「いや、俺のではない。川田の血だろう」と答えながら、電話で変電室の状況と兵員には異状のないことを報告した。報告を済ませて緊張の弛みが出たのか背中にピリピリとする痛さを感じる。シャツをぬいで石井に見てもらうと、ガラスの破片が70余、更に頭と足に1カ所ずつ突き刺さっていた。早速医務室に出かけて、同年兵の内藤上等兵に治療してもらった。

医務室には負傷者が次々に担架や、戦友に背負われて運び込まれているが、皆悲惨な姿である。頭がまるで掘り割ったようにえぐり取られた者、片足は膝下からなくした者、等々でいっぱいの修羅場であった。しかし部隊の負傷者の方が、まだよい方だったかも知れない。市内で被爆した人々の悲惨さはこの上もないことは後でわかった。

広島の全市が爆発の影響を受けるような、力のある爆弾は何であろうと皆疑問を持った。ガスタンクに爆弾が落ちたとか、新型の大きい爆弾だ、等の噂は流れたが、原子爆弾だったとは知る由もなかった。

軍隊で健全でいたのは暁部隊ぐらいのもので、他の陸軍部隊は朝礼時間前後のため営庭に集合中が多く、ほとんどが全滅の状態であった。このため、暁部隊は一部の負傷者を除いて、全員市内の救援に出かけた。

負傷した私は残留したが、午後になって私たちの中隊にも市内の負傷者が4、50人収容された。顔は風船のようにはれ、髪の毛は焼けちぢれ、皮膚は黒く焼けてはげ上がり、赤い身が出ている。どの人を見ても男女の区別さえつかない。そして治療といえば、チンク油の白い薬を塗ってやるだけだった。

夜になって幾人かの人が死んだ。倉庫を空けて屍室とし遺体を収容したが、各中隊からも来るため収容しきれなくなり、8月という時期的なこともあって、長くおく事もできず、すでに異臭も出ている。

翌日部隊の船で似島の横穴防空壕に仮埋葬することになり、各中隊の船でヤンマーヂーゼルの忙しい音を立てて、遺体を運んだ。

我々の部隊は宇品市から連絡船で渡る金輪島に駐屯していた。ここに6、7歳になる男の子が収容され母を求めている。聞いてみると船は一緒だったらしいが、中隊の収容者の中にはいない。他の中隊を探してやっと探し当てたときは、その母はこの世の人ではなかった。

その中隊の人の話では、子供の名を呼びながら息を引きとったということであった。その子も明けがた近くに小さな生命が散った。母の死も知らないので、遺体だけでも一緒の処にと、これが我々のせめてもの思いやりであった。

人々の住所氏名を聞いて名簿を作って整理した。名前や年齢を聞いていると、女学生が4、50歳のおばあさんくらいに見えるので、間違いないか何度も念を押す有様だった。皮膚が黒く焼け、顔などがはれているせいだろう。

爆音が聞こえて来るとどこからともなく、「兵隊さん、仇をとってください」と呼ぶが、どうしようもない我々であった。。

日夕点呼の時、命令会報が伝達された。それによると「新型爆弾を投下せるものと思われる。これに対する我が方の処置なし。今後たとえ一機といえども退避すべし」以上のような会報だったと思う。

私は3日ぐらいして死体収容や派遣隊の連絡に市内に出たが、広島市内は見渡す限りの焼野ヶ原と化していた。市内電車が走行中被爆したのであろう、軌道もない処に轍をのこして数メートルも先で黒焦げに焼けている。市内の人々は被服など着けていない。腰に布地を巻いている程度の人が多く見られ、まだ余塵がくすぶって臭気が鼻をつく。

当時の中国配電(現在の中国電力)の広島支店に連絡に立ち寄ったとき、被爆者の話では、ピカッと光った

瞬間危ないと思って外に出た。外は灼熱の暑さ、屋内に入ると天井の壁などが落ちるのでまた飛び出る、という事を3回も繰り返したそうだ。爆心地に近い処は想像以上の悲劇であったらしい。

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終戦後の新聞に、似島で多数の白骨死体が見つかったという記事が出ていた。これは当時の暁部隊で収容された人々の遺体であったと報じていたが、我々の作った名簿で果たして幾人の人々が、遺族に引き取られたやら知る由もない今日である。

あれからすでに四十有余年が過ぎた今でも、当時の悲惨さとキノコ形の原子雲は、8月6日が来るたびに思い出されてならない。

ピカドンと誰がつけたかあの悲劇 二度と受けまじ原子雲

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