大分市 岡田 實
ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア被爆者と叫び続けて、四十年が過ぎました。広島、長崎に投下された原子爆弾は、一瞬にして七十万人が被爆し、そのうち二十万人が殺されました。生き残った人々も後々まで放射能の後遺症に苦しみ、その深い傷跡は今もなお癒えることなく、被爆者の心と体を痛め続けています。
私は昭和20年1月、学徒動員により陸軍甲種幹部候補生として、東京の陸軍機甲整備学校に入校しました。
そこで船舶整備の基礎教育を受け、7月に広島市宇品の船舶練習部に転属しました。そして間もなくの被爆でした。毎晩のように空襲警報が発令される東京と違って、広島は当時珍しく空襲を受けない町でした。しかし、戦局も段々悪化して、広島でも防空壕を掘ったり、疎開が始まっていました。
原爆投下の前夜に米軍機が飛来し、夜間警備に従事したため、6日の朝は平時より1時間遅れた起床でした。
それで8時前の朝食となり、食事を済ませて自分の部屋に戻った直後の事でした。その朝は一度空襲警報が発令され、それが解除された後の事で、比較的にゆったりした時間でした。
一瞬ピカッと光る閃光と、次に起こった爆風で兵舎の窓ガラスは吹き飛び、慌てて防空壕に飛び込みました。
しかし、その後何もなく、爆弾攻撃にしては後が続かず、何事が起きたのか全く見当がつきませんでした。近くに都市ガスのタンクがあったので、それでも爆発したのかと思い上空を見ると、あのキノコ雲がモクモクと頭上空高く、巻き上がるのが見えました。これは唯事ではないと思いながらも、事情が判らないまま飛び散った窓ガラスや屋根瓦の整理をしていました。これがあの忌まわしい原子爆弾であるとは、全く知る由もなかった。
間もなく救援の出動命令がかかり、広島市内へ向かいました。全身血だらけの人々が郊外へと逃げてくるのと対面しながら、中心部にと進みました。暑い時期のためガラスの破片が全身に突き刺さり、血で真っ赤に染まっている。これはまだ軽い方で、進むにつれて家は潰され、道路のそこここには爆風に吹き飛ばされた死体が散乱し、家の下敷きになりながら助けを求めている人、とても言葉にはならない惨状でした。
家の下敷きとなり、苦しんでいるのを引き出して見れば、顔は潰れて目鼻の区別もつかず、逃げ惑う被災者は服はぼろぼろ、火傷した皮膚はベロベロに垂れ下がり、手首を前に垂れて当てもなく逃げ回る姿は、とてもこの世のものとは思えませんでした。
重傷者を第一に救護所に運びましたが、途中は死体がゴロゴロ、路傍に横たわる負傷者は炎天にさらされ、「イタイ、イタイ」「アツイ、アツイ」「水をくれ、水が飲みたい」と訴え、生き地獄とはこんなものかと、目を覆いたくなるほどの惨状でした。
救護所に収容しても施す術はなく、火傷に油を塗るだけでした。収容する一方から死んでいく始末で、ただ死を待つばかりといったところでした。生死をさ迷う人に薬や水さえも飲ませることができず、人間らしいことをしてやれなかった口惜しさや辛さは、生涯忘れることができません。
私達は約一週間に亘り、負傷者の救出と爆死者の収集処理に当たりましたが、兵舎に帰ることもなく焼け跡のビル等に野営し、毎日何百体もの死体を焼き続けました。暑い時期のために死体はたちまち腐敗してウジがわき、異臭で埋もれた死体を探し出す状況でした。あの重い電車が立ったまま軌道の上で真横に向きをかえ、その中に焼死体が重なり合っていたり、爆風に飛ばされたのか、河には水死体が幾百となく漂い、半焼けの死体は、人かなにか判らない有様でした。慣れとは恐ろしいもので、人間の死体とは思わなくなりました。河に入って死体を引き揚げましたが、死体収容の辛さよりも、水を浴びたい気持ちで河に入るという異様な精神状態でした。
死体処理の方法は、幅2メートル、長さ10メートル、深さ1メートル位の壕を掘り、爆風で壊された家の柱類を積み重ね、その上に死体を数十体並べて焼却しました。氏名の判る者は記帳しましたが、不明の者は人数を数え夕方火をつけました。火葬の炎が各所にあがり、全く明かりの消えた広島の夜空を赤く染め、人を焼く臭いは全市を覆いました。焼いた骨は手づかみで新聞紙に包み、誰々外○○名として市役所に届けました。
当時としてはやむを得なかったことでしたが、家族の行方が判らない話を聞くたびに、申し訳ない気持ちになります。
僅か一発で一瞬の内に死の街にした爆弾は、アメリカ軍が落とした特殊爆弾で、それには放射能があるという情報が入りました。しかし、放射能の恐ろしさなど知る由もなかった私達は、その真只中に素手で飛び込んでいたのでした。下痢等が点々発生していましたが、手も洗えない不衛生のため位に思い、放射能に対する無知識や死体処理に追われ、それほど恐怖感はなかったように思います。
昭和21年県に奉職しましたが、放射能障害がどのように現れてくるのか、軽い病気でもそれが原因ではないだろうか、と不安のつきまとう日々でした。労働組合等の原水爆反対行動には参加しても、被爆者を名乗り、自らの被爆体験を語る気には、どうしてもなれなかったのです。それは結婚に対する障害であり、生まれる子供への不安でした。被爆後十年経過して結婚に踏み切りました。しかし、二カ月後に病気入院、一年間休職しての療養生活となりました。被爆と直接の関係は無いとしても、病気に対する抵抗力が弱いのではないか、度重なるレントゲン検査の影響はないかと、心ひそかに悩み続けました。
昭和40年に被爆者手帳の交付を受け、他からの勧めもあってこの会に入会しました。私はこの被団協活動を通して、原爆の恐ろしさや被爆者の体や心の苦しみを、生き証人として一人でも多くの人々に伝え、再びあのような惨事を繰り返さないよう訴えることが、被爆者の責務であると考えるようになりました。
私達の子供や孫の頭上に、再びあの生地獄が起きないよう、核兵器の廃絶と、平和の尊さを強く訴えましよう。