大分県被団協

私の被爆と、三宅家の惨状

竹田市 山岡親(旧姓金丸)

私は昭和20年1月26日から、広島市段原町広島女子商業学校を隊舎とした、船舶砲兵団司令部無線通信教育隊に勤務していた。ここには通信隊二百名と衛生隊五十名がいました。私は2月上旬、南蟹屎町の三宅郡二さん宅に下宿した。

三宅さんは大工で、観音町三菱造船所構内に建具工場二棟を持っていた。まったく気さくな人物でした。おくさんは「花」と言い産婆業三十年の、穏和でなかなかしっかりした人で、近所の人の信望も厚かった。長男は満州で小学校の教師、二男は北支で戦死していた。家には長女幸枝さんと、女学校二年の二女千鶴子さんの四人暮らしだった。私はここで家族同様に、お父さん、お母さん、幸枝さん、千鶴ちゃんと呼んでいた。段原町に郡三さんの義姉三宅イトさんがおり、私はこの人の口添えで郡三さん宅に世話になったのである。

昭和20年8月上旬、米軍はサイパンや沖縄から連日のように数百機の爆撃機が日本本土を空襲し、殆どの都市は焼け野原寸前だった。また日本には艦船も油も飛行機も無くなり、それを造る工場も潰滅し、食料も無く一億玉砕が叫ばれ、竹槍戦法を強いられていた。このような時期、広島も今晩だろうか明日だろうかと心配の毎日だった。このため市内各所で家屋の疎開が行われ、市民が大勢狩り出され、女学校の生徒も動員されていた。

8月6日午前8時15分、広島上空で特殊爆弾が炸裂した。その日は雲一つ無い無風状態で朝日がキラキラ輝いていた。空襲警報も発令されてなかった。月曜日で隊長の精神訓話があり、全員二階の講堂に集合していた。隣の衛生隊は校庭で軍人勅諭の奉唱中であった。B29は一万メートルの高度で進入し、広島上空で何か一個投下した。落下傘に人が吊り下がったようにふらふら下がってくる。地上五百メートル位で「ピカッ…」と凄まじい熱の閃光が輝いた。アアッ熱い…と目を覆った瞬間ドーンと音ともに爆風が来た。校舎は一瞬にして潰され地に這った。隊員は壊れた家の下敷きになった。ガラスの破片は無数に飛び散り、兵は負傷者ばかり。

さあ大変。木と木の間に足を挟まれ、胴体を挟まれ、頭を打つなどそれはもう大変だった。

爆心地から二千三百メートルでこの惨状。幸いここ段原町は即座に火災が起こらず助かった。隣の衛生隊員は舎外のため、全員が顔半分と片手を火傷した。爆発と同時に比治山より南の市街地は一面に亘り一挙に火を吹き、大火の大海と化していた。五、六十万人の大都市広島が、一瞬にして滅亡した。恐るべき強列な爆弾であった。爆発の黒煙は物凄く空天に昇り、キノコ型をして己斐の上空に流れ、雲と変わり付近一帯物凄い夕立になった。

市内の方からは、身はボロボロに焼け、見るも無惨な姿の人達が、何千人も比治山を越えて北に走った。爆心地から三キロでも大火傷し、四キロの蓮根、里芋の葉は焼け落ちて軸のみ、六キロの稲の葉は真っ赤だった。

衛生隊は段原小学校に診療所を開設して救助を始めたが、大勢の火傷患者でたちまち満員になった。私は右手第四指切断、胸部と腰を強打して身動きできなかった。三宅家では千鶴子さんが身体の前全身の大火傷を受け、診療所でも手当てのしようもなかった。

そのうち長崎にも同じ爆弾が投下されたニュースがいち旱く流れ、満州もソ連軍に制圧されたとの報だった。

診療所の患者は治癒することも無く、日に何人となく死んで行き、日の経つにつれて死者はますます増える一方だった。

三宅家では千鶴子さんを自宅に連れ帰り介護したが、只仰向けに寝たきりの全く燐れな姿だった。そして、11月に、全く無傷だった幸枝さんが突然逝去され、隣の問で妹の千鶴子さんが、私が替わりたかったと泣き続けた。その千鶴子さんも骨と皮に痩せ衰えて、12月15日夕刻静かに息絶えた。火傷闘病実に132日、また満州の長男一家も全く消息不明、三宅家の惨状筆舌に尽くし難し。

その後私は郷里に帰り縁あって山岡姓に変わり、農業に従事し今日に至るも、あの被爆の際胸や腰を打つだのが原因で腸を痛め、この四十年全く人並みな働きも出来ず、目下七十歳、年老うにつれて痛みは増し、困窮しています。

 

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