中津市 重松 孝一
私は暁部隊指令部直属の西部第87部隊と仮称する覆面秘密部隊に所属する薬剤中尉であった。警戒警報発令中将校室で、上着を脱ぎ軍刀もはずして、昨日まで行った特殊潜水艇による、潜水演習の報告書の作製に取り掛かっていた。
突然強烈な光線が目を射て、めまいを感じたと同時に、ドーンという物凄い爆音で、五体が押し潰されるような圧力を覚えた。反射的に机の下の潜っていた。部屋の天井を白煙のような物が猛スピードでくるくる回転した。窓硝子は微塵に砕けて飛んでいる。瞬間目に入った光景は、目前の大きな倉庫が、スロービデオを見るように、ゆっくり壊れるところであった。「やられた」と直感した。私は直撃弾が命中したと思った。第二波、第三波を予測して部下に「伏せろ、頭を出すな」と怒鳴った。その後は意に反し静かであった。深山幽谷にいるようにシーンとして不気味な位であった。
これは大変と直感し、上着を着ようとしたら、飛散した硝子片で穴だらけ、まだ硝子が突き刺さっている始末で、着られたものではない。軍刀も鞘革に硝子片が突き刺さっていて使えない。そのまま飛びだして見ると皆やられている。先ず見たのは、無数の硝子片が突き刺さって救いを求める兵隊だった。天日暗しの感で仰ぎ見たのが例の茸雲である。真黒な茸雲はぐんぐん上へ成長して行く。何故か判らぬが紫色にチカチカ光る花火のようなものが見えた。
衛門の方が騒がしいので、走って行って見ると、焼けただれた被爆者が無数に救いを求めて押し寄せている。衛兵は規定どおり銃剣をつけてこれを追い返しているのだった。私は許可を得る暇もないので、衛門開放を独断で命じた。どっと被爆者が雪崩れ込んだ。軍医五名、衛生下士官三名しかいないので、早速お手上げで、衛門を閉鎖してくれと連絡が来た。しかし、衛門を閉じて、被爆者を追い払うようなことはできない。私は連絡を無視して被爆者を受け入れながら、指令部に走って了解を取りつけ、再び衛門指令となった。
一人一人負傷の状態を見て、治療可能と思われる者のみを医務室に回し、担架で来る者は瞳孔の検査をして、見込みの無い者は練兵場へと指示した。ひどい火傷のため全身をブルブル震わせて、全くの放心状態である。
体中に大きな火ぶくれができ、氷嚢をぶら下げたような状態の負傷者が多いのに驚いた。焼け焦げて千切れた布片がその火傷にヒラヒラと張りついていたのである。
暫くして、指令部から衛生隊を組織して、広島中心地区の市民救護をせよとの命令が来た。私は、紙屋町の住友銀行廃屋に救護本部をおき、五名の軍医をそれぞれ班長として救護に当たらせた。約一週間不眠不休であった。毎日救護班の状況把握のため、市内を巡回したが、その時不思議に思ったのは、相生橋の坂を越す時、急坂を登るように自転車のペダルが非常に重く感じた。血液検査の後、耳から採血された患者が、敷いている毛布の上に、吐血したように多量の出血をしていたのを巡回中に見たことがある。後で判った事だが、血液に凝固性が無くなっていたのである。このため、皆血便をしていたのである。事情が判らず、赤痢の発生かと大変心配した。それで死体の火葬を急いだ。赤赤と燃える火の中にマネキンが立っているように、死体の黒い影が不気味に見えた。

負傷者は皆「水をください」と言う。私は水筒を五、六個肩から下げて給水して回ったが、薬品も治療法も無い重傷患者に施す術はこれしかなかった。水を含ませると、咽喉仏が大きく動いて「おいしかった。ありがとうございました」と言ってそのまま亡くなっていく。皆それぞれに思い残す事があったことだろう。若い母親が「軍医さん、私はいいから、この子に注射してやってください」と焼けただれた両手を合わせて私を拝む姿に、私は、「よしよし」と下士官に注射を命じた。「赤ちゃんはもう死んでいます」と言って打とうとしない。確かに死んでいる。乏しい薬剤は寧ろ母親に必要と思うが、止むをえない。
声を荒くして、「命令だ、打て」と叫んだ。下士官は不承不承、赤ん坊に注射した。母親の目からは大粒の涙がハラハラとこぼれた。「ありがとうございました。お蔭さまでこの子が温かくなって来ました」と言って、母親は安らかな顔で息絶えた。思わず私は合掌した。
最後に、目の当たりに見たこの地獄絵図を再び見てはならないと思う。人間の命を軽々しく奪う愚かさを、神が許すはずはないと思う。