大分市 上柳田キミ
昭和20年8月9日、長崎市に原爆が投下された当時の事は、思い出すことさえ嫌で、胸が一杯になります。
しかし、思いを新たにするのも、命日を目前に控え、亡き主人の供養になるのではと、拙いペンをとりました。
敗戦当時私は28歳、主人は30歳で結婚生活三年四ヵ月の夢多き頃でした。男の子も生まれて二年四ヵ月、その成長を楽しみに主人は三菱造船所に勤め、黙々と働いていてくれていました。昭和20年8月9日長崎上空に原爆が落とされ、火の玉が光り輝き燃えた瞬間、夫の姿は消えうせ、一家の運勢は一瞬の内に変わってしまったのです。
以来、郷里の鹿児島に帰り老母を助けながら、一人の遺児を一生懸命育てて、長い年月苦労してきました。
四十年の歳月は生活に追いまくられる茨の道で、いつの間にやら白髪もふえ、やっと後ろを振り向く頃となっていました。
想えば昭和20年8月15日、天皇陛下が国民や国を思う優しいお気持ちをもって、降伏の御決断をなされましたが、それは悲しく無念な、誰も信じられなかった事でありました。
広島長崎の被爆者の皆さん、ピカドンの落とされた距離によって状況は異なりはしたものの、再び被爆者を作ってはなりません。被爆者はもう私達だけで十分です。二度と再び核戦争を起こしてはなりません。いろんな面に立ち上がって核の廃絶に頑張りましょう。
傷を負って苦しまぎれに河に飛び込み、流されながら息をひきとった人、苦しさに肉親の名前を虫の息で呼んでいる人、水、水と泣き叫ぶ人、想えばまさに生地獄……私は爆心地より3キロ離れた「水の浦」で被爆しました。ちょうど子供が病気で、会社の病院に連れて行くよう主人に言われていましたので、病院から帰る途中でした。実家近くの路上でひどい爆風と雷の稲妻みたいなのに遭い、連れていた老母は横倒しになり、無我夢中で道路脇の人家に走り込みました。無事を喜び合い、静まるのを待って家に帰ったのですが、主人は夜が更けても帰らず、私は家を出たり入ったりで一晩中眠れぬ夜を過ごしました。翌日、主人を知る身近な方々が安否を気遣って下さり、主人を探し求めにいって下さいましたが、生きていることは無理な状況らしく、外は一層騒然さを増し、生きた心地すら致しませんでした。
原爆投下の朝、私はいつもより早起きして出勤支度が早くできたので、主人は、「行ってくるよ」と言って一度玄関を出たのに、「今朝はまだ早いね」と舞戻って玄関に腰掛けていました。それで私は「早い程ゆっくりできていいんじゃない」と言ったらコトコトと後振りむくこともなく出掛けて行かれました。これが最後の別れになろうとは誰が思ったでありましょうか。今にして思えば、原爆投下のちょうど十一時二分頃はお腹も空いて、昼の食事を楽しみに頑張って下さっていただろうにとか、また私達妻子の事など想う暇もなく一瞬の出来事だっただろうかと情けなくなり、今でも時たま泣けてくる事があります。
当時は泣いてばかりではこの子は育たぬと必死でした。「身にはつづれを纏うとも、手足は汗にまみるとも、正しき心まめやかに、働く身には望みあり」とか、「憂きことの尚この上につもれかし、限りある身の力試さん」の好きな句を胸に秘め、一生懸命頑張りました。
お陰様で親子共に病気一つせず社会人となり、今では小六と、中二の孫をえて、親子水入らずの五人家族が仲良く生活しております。これも一方ならぬ皆様のお陰と感謝の毎日です。
平和祈念像
この像は、平和公園の北端にあります。
高さ9.7メートル、青銅の男神裸像です。この像は神の愛と仏の慈悲とを象徴し、上方をさす右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈る気持ちをあらわしたものです。祈念像の前の池には黒い石棺があり、その中には原爆殉難者名簿が納められています。