大分県被団協

長崎の日

長崎の日

直入郡久住町 幸重三治

大地が瞬時にして火の海と化した強烈な爆弾、それは昼間の何十倍、いや何百倍とも言えるほどの明るさでした。私は昭和18年3月、三菱長崎造船所養成工として入社、電機艤装工場商船係吉村組の配属となり、週四日は仕事、二日は三菱工業学校に学ぶという毎日でした。

原爆が落とされる前の日に、造船所の心臓部である発電所をB29に爆撃され、その応急処置のため応援に行っていましたが、空襲警報が解除になったので昼食に帰れと言われ屋外に出ました。その時東の空にキラッと光る飛行機を見たのですが、友軍機だろうと皆で話していました。すると、何やら落下傘のようなものが落ちて、ピカッと光ると同時に強烈な爆風を受け、体ごと吹き飛ばされてしまいました。

気がついてみると、前日の爆弾であいた穴の中に落ち、上に埋まっていました。頭は出ていたのですが、幸い鉄兜をかぶっていたので何ともなく、後首だけがひりひり痛みました。二十分位は気を失っていたと思います。穴から這い上がってみると、友人達も皆会社の病院に急いでいました。

病院には何百人の人達が一度に押しかけたため、どうすることもできずかなり待たされました。何とか火傷の治療をして貰い腹をすかして帰ってみると、並べられていた昼食には、屋根のスレートや割れたガラスの破片などが落ちていて、とても食べられる状態ではなく、ただ辺りに負傷者がうようよしている始末でした。

皆我が家が心配で早く帰りたいのですが、一度に船に乗り切れず、長時間待たされいらいらするばかりでした。

市内は当然火の海となっていました。東上町の私の下宿は焼けていませんでしたが潰されてしまい、もう誰もいません。張紙に書かれていた行先を探し求めてやっとの思いで着いたころは、すっかり夜になっていました。そこに着いて間もなく兵隊が三人来て「日本は必ず勝つのだから皆で頑張りましょう」と言い、乾パンを七個ずつ配ってくれました。

それでやっと腹の虫もおさまりました。

しかし、当時は、新型爆弾が太陽を必要とすることなど知りませんでしたから、夜もまた落とされるのではないかという恐怖心でいっぱいでした。消防隊に所属していた私達は、市内の消火や片付け、死亡者の整理、負傷者の救援などに毎日出ました。とても辛い仕事でした。そして四十年以上たった今でも、死体で埋まった

小川、水を欲しがる重傷者、木の下敷きになり助けを求める人、横穴の防空壕でむし焼きになっている人など、様々な光景がはっきりと目に浮かびます。

現在、私は内蔵疾患や皮膚病など五つの病気を持っています。おそらく一生薬を飲み続けることになるでしょう。

もう戦争はこりごりです。絶対に戦争をしてはならないのです。私は何よりも平和を望みます。

 

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