大分県被団協

この体験を子等に話す

大分市  首藤利久
プルトニウム239の原爆が投下された長崎は、昭和20年8月9日午前11時半を境にして、一瞬にして荒漠たる廃墟の町と化した。
私は現役兵として、同年7月15日に長崎高射砲第134連隊に入隊した。この日この時は、小榊で連日の事ながらの厳しい軍事猛訓練を受けている最中であった。爆心地から若干離れていた私たち新兵は、翌10日に中之島隊に転属された。爆心地近辺で被爆した負傷兵の救護、看護に従事することになったからである。高射砲兵から急に衛生兵としての働きである。

たぶん、立神、岩瀬道町、塩浜町、水ノ浦旭町、幸町、天神道を通って中之島に行ったと思うが、かなり長いこと時間がかかった。何故なら満足に通れなかったからである。

道は何個所も、壊れた家屋で塞がっていた。燃えくすぶる電柱が横たわっていた。ガラスなどの破片が無数に散乱している。犬や猫が死んでいる。馬の死体もあった。
歩行不能で路上にたおれた人の皮膚は、閃光を浴びて顔といわず手足といわず、ベタリとはげ落ちていた。

火傷とガラスの破片などで全身が血まみれになって通る人を何人も見かけた。
ああ、何たる悲惨な光景か。この世とは思えない。まさに、不気味な死の世界。生き地獄の惨状であった

灼熱の炎天下の道を通る私は、何度も何度も体が震えた。
地面スレスレの超低空を飛ぶ敵の艦載機グラマンの機銃掃射を受けて、これまで戦死した戦友もいる。戦争だから敵味方とも戦死者が出るのは当然かもしれない。しかし、一般人、女や子供、老人を一度に何万人も死傷させる原爆の無慙な行為は、決して許されるべきではない。

私たちは指示通りに救護、医療活動に懸命に働いたが、悲しいことに薬品やガーゼ、包帯が十分にない。膿のついた包帯を洗っては何度も使用する始末だった。
背中一面の大きなケロイドに悩み苦しむ若い新兵は「死んでもいいから仰向けに寝かせてくれ」と訴える。
強烈な爆風で全身いたる処に怪我をしてうめき続けている老兵、片足をもぎとられて激痛に耐えている顔色喪失の負傷兵、等、等。
力いっぱいの看病に明け暮れしての一週間後に終戦となり、私は同年9月21日に帰休除隊となった。
戦後、再び教壇に立った私は、児童生徒に右記の体験を事ある毎に話す事ができた。大分市は、夏季休業中の八月六日を全校登校日にしている。教頭、校長の管理職になってからの私は、全校生を対象に朝会や全校集会の場で、またある時は校内放送を通して「核兵器の恐ろしさ、人命の尊さ」を長崎でのこの体験を取り入れて話す機会を得た。
再び二度と、このようなことの無いよう切望して閣筆する。

 

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