大分県被団協

私の被爆体験

大分市  吉田  助男

1945年原爆投下当時、私はソ満国境の警備隊から転属で広島の船舶整備教育隊に入った29歳の技術准士官であった。営外居住のため早速妻を連れて東観音町に家を構え、そこから宇品まで電車、それから船で約2キ口離れた鯛尾という島の部隊に通う毎日であった。広島は毎日空襲警報が発令され、B29が大編隊で通る

が、不思議に爆撃はなく、グラマンによる銃撃一つなかった。日本はサイパンがやられ、沖縄も陥落して、いよいよ本土決戦の様相となっていた。

そんな或る日、食事をとっていると、窓ごしに空から宣伝ビラが落ちるのが見えた。好奇心にかられて拾って見ると、表に十円紙幣が印刷してあり、その裏には良民が御飯を食べており、その家の柱に綱をつけて、軍閥が引き倒している絵がかいてあった。横に「日本の善良な皆さん、この十円紙幣で今何が買えますか、皆さんの生活は苦しくなるばかりです、早く戦争を止めましょう」と書いてあるのです。

その時私は鋭く第六感が働いたのです。妻に「お前大分に帰れ、俺も軍務に専念するのだ」と言うと、「何を言うのですか、今は広島が一番安全です、私も軍人の妻です、足手まといになるようなことはいたしません」と言う。それでも早速私は荷物をまとめ、否応なしに妻を大分に送り帰したのです。それから二十日目に原爆が投下されたのです。

8月6日朝下宿屋を出て、電車の停留所で同僚と話をしていると、警戒警報が発令された。電車は動くので乗って行くと、突然空襲警報が発令された。乗客は全員降りて防空壕に入った。私たち軍人は外で敵機の状況を伺っていたが、一向に来る気配もなく警報は解除された。それで電車に乗るため四、五歩あるいたとき、同僚が、ちょっと待ったと、上空を指差したので目を向けると白いものが見え、その瞬間真夜中にマグネシュウムのような閃光が見え、同時に後頭部と右足に焼火箸を突き込まれたような灼熱と爆風を受けた。

気がつくと防空壕に頭を突っ込んでいたが、この間約五秒位あったかと思う。外を見ると視界は真っ青で目をやられている。同僚もそうだ。頭が混乱してしばらくは呆然としていたが、同僚と励ましあって宇品港まで突走った。迎えの船に乗って広島市内を振返ったが、その時上空にはムクムクと原爆雲が不気味に折り重なっていた。部隊は爆心地から約6キロ程離れていたが、兵舎は屋根瓦や窓硝子全部が壊れていた。

被爆後、焼けただれて兎が皮をむかれたような負傷者が、幽霊のような格好で、続々と避難して来た。約一万人を収容したが負傷者の治療や死骸の始末で大変な騒ぎとなった。間もなく部隊は広島市内に出動し、死骸の収容にあたった。ある幼稚園で、園児が爆風で吹き飛ばされ、楠の木に三人ほど引っ掛かっており、一緒に作業中の囚人の一人が救出を申し出て、スルスルと猿のように身軽くよじのぼって死骸をおろしてくれた。私は思わず感謝の意を表した。四、五日も過ぎると死骸は皆子牛のように膨れ上がり、目耳口鼻からウジが流れ出て死臭がひどく、食事も喉を通らない有様で、これが本当の生地獄だと思った。

政府は原爆被害者をそのまま葬ってよいのでしょうか、宇宙の心理、大自然の法則は絶対的です。これに反する者は、いつの時代でも厳しく大自然の異変の形で整理されることは歴史に明記されている。政治家には宗教的信念の欠如者が多いといわれている。お互いに真剣に考えましょう。

 

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