大分県被団協

夏になると思い出す

中津市   岩久 義高
戦中派育ちには色々な体験がある。昭和20年8月7日、この日は私にとって生涯を通して最も長い、そして暑い一日であった。8月7日それは広島に原爆が投下された6日の翌朝でもある。私は大阪城の遠望できる八尾飛行隊第248戦隊に配属されていた。
なぜか一年ぶりの休暇が出た。喜び勇んで藤井寺駅より電車に乗った。夕方大阪駅に着く。夕刊に「今朝広島市に異様爆弾落下被害不明」の新聞紙を手にしながら九州行き特急列車に乗り込む。夜中になっても列車が動かない。仕方なく二、三十人の乗客と共に下車した。外は真っ暗である。西に向かって線路をただ一人急ぐ。
十数キロを歩いたであろうか夜も白々と東の空から明け始める。
変である。屋根瓦が皆蛇行している。夜明けの道を大八車に黒焦げの屍体を数体もくくりつけ、山に向かって逃げて行く人波である。広島駅に近付く。見るものすべてこの世の物であろうか。広島市一面の崩壊である。
夏の最中と言うのに木々に一葉の葉っぱもない。累々と倒れている人。やがて駅に着く。朝から焼けつくような暑さである。昨夜来歩き通しのため無生に腹がへる。壊れたホームに腰掛け、朝食用ムスビニ個のうち一個を口にする。どこで見ていたのか、次の一個を失敬される。見れば可愛い男の児である。蝉取りの高竿を持っている。山の中で蝉取りをしていて被爆を免れたのであろうか。しかし、目は泣きじゃくりはれている。親でも探しているのだろう。仕方無く破裂して噴出している水道の水を飲み空腹を満たす。
私はこの時余り暑いので靴を脱ぎ素足のままであった。地下に浸み込んだ放射能は、眼にはみえなかった。
その時突然物陰から駅長風の人が、日本刀を抜刀し頭上にかざし、「退避、退避」と叫ぶ。三角巾で腕を吊るした女子挺身隊が二名続く。全部で駅員は三名か。空を見るとB29一機が飛来している。急いで地下道に這入る。
ここも瀕死の人でいっぱいである。千人か二千人か、一人として動けない。すでに側壁にもたれた三分の二は死んでいる。もう顔面には蝿がとまっている。広い地下道も中央を、人一人がやっと通れる位いっぱいである。苦痛のためかその声は、地下道いっぱいに「ウォーン」と響く地獄の形相である。居たたまれず、B29も去ったようなのでホームに上がる。
四本のホームも負傷者また死体である。虫の息の人、人、人である。持っていた数個のトマトを雑のうから取り出し、帯剣で掌の上で小指頭大に小さく切り、苦痛の一人一人の口許に入れる。かすかに唇が動く。そして何かを言いたげに、ジット涙して私を見つめる。声が出ないのである。唇が誰も溶けている。耳もそして鼻先もである。家族に何かを伝えて欲しいのか、ただ口許だけが動く。軍人も多い。佐官級尉官級が多い。広島には師団司令部があったからだろうか。幾十人に与えたであろうか、トマトも無くなってしまった。
駅を後にして垂れさがった鉄橋を渡り、西へ急ぐ。河面にも屍が浮く。川端にも水を求めてか、屍体が続く。
一日かかってやっと広島を横断する。夕暮れ西に向かって煙を吹く貨車を見る。私はこれに乗った。夜中に汽車は西に向かって動きだした。

自宅についたのは三日目であった。8月15日終戦、直ちにまた広島を通り帰隊した。そして二日目また復員である。家にたどりつくや、四十度の高熱で数日の記憶全く無く、数週間は歩くこともできなかった。足の皮膚は濡れ紙でも剥ぐ様に剥げ落ちる。二次被爆である。
あの時の素足のためだろうか。近所の人は今私をアベベと言う。夏には素足のままの八反百姓である。足を鍛えるためでもある。
あの日から間もなく四十年がくる。広島の爆死者八万とも十万人とも言う。又我々戦友一万八千人のうち実に一万二千人が飛び立ったまま、帰って来なかった。
今世界は核へと進む。心の中で憤りを感じる。高熱のためか耳を痛め補聴器の使用で不自由な毎日である。「戦後は終わっていない」

 

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