別府市 はやま とおる
昭和20年8月6日午前8時15分。
世紀の一大惨事が広島に起きた。その日も良く晴れた暑い朝であった。早い人は既に勤務場所に着き、大半の人々は出勤途中であった。家庭では朝の片付けが終わった頃だった。
ピンクともイエローともつかぬ閃光におおわれ、数秒後に凄い風(爆風)が来た。私は日蔭にいたので火傷はしなかったが、閃光と太陽光線の両方に当たった人は火傷が凄い。頭髪は無く、顔の皮はめくれ、気の毒であるがこの世のものとは思われぬ形相だ。爆心地付近の人々は瞬時に灰になったと言う。
広島は空襲に依る爆撃がなかったので、爆弾に依るものとは誰も思わない。「ガスタンクの爆発だ!」 「高圧線のショートだ!」…と思い付く事を口走っている。青い空にモクモクとキノコ型の煙が昇っている、…と言うより渦巻いている。どんどん昇り、広がり、市街をおおった。
静かである、非常に静かな刻がすぎた。数分前まであった建物は崩れ、また全く姿を消したものもある。道路のアスファルトは溶け、倒れた電柱がメリ込んで燃えている。
全身焼けただれ着衣はなく、男女の区別もつかないほどの被爆者が、ウツロな目であてもなく歩いている。
気力のみで歩いているのだろう。口々に「サムイ…水をくれ…」と言う。与えようにも水が見当たらない。
物陰にはホコリと灰にまみれ、生死も判らない人々がうずくまっている。気の毒だ、可哀そうだと思っても何もしてあげる事もできない。
私の家は市内の西端、小高い場所にある。市街地が一目で見渡せる場所である。その市街が一つの炎になって燃えている。午後3時頃だと思う。市の周辺に黒い雨が降った。その雨に混じって障子やふすまの小さな木片が落ちて来た。その黒い雨のシミは今も残っていると思う。
近所に伯母の家があり、池には30センチ以上の鯉が数十尾いたが、その雨で全部死んだ。夕方になると気のせいか「ウオーン…ウオーン…」という人とも動物とも判らぬ低い声が聞こえてくるようである。
当時は運搬の主力が馬や牛であった。その馬や牛が河原で倒れ放置されたままのが数頭見える。2~3日後にはその牛馬は、体内のガスのせいであろう、象の様に大きくふくれあがり、さらに数日で白骨となった。
家の周囲には直径40~50センチもある桜の木が数本あった。そのうち数本は爆心地に向かって倒れている。家屋ももちろん全半壊である。我が家も半壊で中で眠る事はとてもできない。バラックを建てるまで庭先ですごす。幸い雨は降らなかったが、夜中に蚊に悩まされた。
3日後、父の勤める役所の状態を見るため、父と共に市街に出た。途中警報が出たので、半分埋もれている防空壕に入った。ギラギラする陽光のもとから急に暗い所に入ったので何も見えない。サクサクと音のする物を踏み付けた。目が馴れてくると、それは完全に水分の無くなった炭素化した遺体である。父が持っていた乾パンを頭部に供え、二人で手を合わせた。街は全く焼け野原で、コンクリートのビルと丸型の煙突がボツンボンと残っている。
金属類は半ば焼け、茶碗、皿等の食器や花瓶などは数個が溶け合って一カタマリになっている。可燃物は何一つ残っていない。建物疎開に従事し被爆した人々の遺骨が、焼け残った屋根瓦に少量ずつ乗せられ並べられている。氏名は不明である。中学校以上の学生は、男女を問わず全て学徒動員として工場へ、また建物疎開へと出動していた。その遺骨もほとんどが十代前半の学生であったと思う。

被爆広島の象徴として原爆ドームを知らない者はいない。私は被爆数日前にその内部を見学した。産業奨励館で近代的でスマートな建物であった。緑色のドームの屋根が印象的であった。ラセン階段を昇り最上部の窓から、市中を眺めたことを今でもハッキリ覚えている。その時は、数日後にあのような悲惨な姿になろうとは夢にも思わなかった。このドームは絶対に永久保存し、唯一の被爆証拠物として全世界の人々に見てもらい、核の悲惨さを知ってほしい。また、平和公園にある原爆資料館の展示品も、是非一度は見てほしい。8時15分で止まっている時計や、中味の入った半分焼けた弁当箱等は忘れる事ができない。
今年も8月6日が来る。42回目である。当時生まれた人々も、今は当時の私達の父や母の年齢であると思う。その子供達やズーッと先の子孫に、私達と同じ体験をさせてはならない。世界的に! 絶対に!
最後に広島、長崎の原爆死没者各位の御冥福をお祈り致します。