特別救援隊
下毛郡山国町 竹内 博
被爆四十年、今や我国の経済文化は欧米並み、それ以上のものがある。恵まれすぎた国民は、あの残忍極まる被爆の教訓を素通りしているような気がしてならない。テレビ、文化、マスコミ等は核の恐ろしさを報道し、再びあのような悲劇を繰り返さないようにと。
我々被爆者は老齢化と減少を続ける現状、戦争を知らない昭和世代の人々に、被爆の生の声、体験談を訴える責任があり、風化防止の課題がある。記憶をたどり体験を記したい。
私は、川南造船所従業員であった。8月9日、長崎に特殊爆弾が投下され、10キロ離れた同造船所まで被害があった。
救援活動先発隊、第一次特別救援隊三十名が編成され、私もその一員となった。市内に上陸し、一望瓦れきの山、目標の無いことに先ず驚く。死体はアチコチに散乱、植物は大きな庭木まで、爆風で根元から引き抜かれ、枝は裂け、葉は茶褐色、電車は鉄骨、人体は黒く焼けただれ、馬車馬は四つ足をあげて死骸、崇福寺だけが焼け残っている。一面この世の地獄である。
特別救援本部を崇福寺に設営、まず道路を通行できるようにする。壕に生存者はいないか、これが私に与えられた命令である。伝令二名を連れ、一つ二つと壕を、生存者ヤーイと点検、整列されたような屍体を乗り越え丹念に調査、無論一人の生存者もいない。唯一人「助けてくれ」のかすかなうめき声、懐中電燈で確認、担架を持ってきた時は、既にこときれ、印象的、未だに脳裡に残っている。この壕は、大企業三菱が誇る絶対に死者を出さない理想壕と言われていた。この頑固強健厳重な理想壕の中でも、原爆は生存を許さない威力を発揮、恐るべき殺傷力である。だが原爆の光りは、薄い着衣一枚でも、黒と白の部分で火傷の度合いが違った。着衣の色で死傷の分かれた人を数多く見た。
次の日から、本隊三百余名が救援活動開始、諌早市時津町の消防団の方々と共に本格的な死体収容、道路整備、壕の中から戸板の担架で死体搬出、炎天下の死体は、黒く赤くただれ、悪臭、うじがわき被爆下の心理で活動ができた。
現下の世界情勢は、核拡大の方向へと思えてならない。人類、地球の滅亡である。
再び戦争が起きないよう、これは国民的願いである。被爆者である吾々は、ことさら声を大にして叫びたい。「過ちを再び繰り返してはならない」これは被爆体験者の生の声である。