大分県被団協

被爆者の声

広島原爆, 被爆者の声

閃光に想う

佐伯市  菅 修  昭和20年8月6日は、朝から雲一つ無い快晴で、外はぎらぎらと太陽が照りつけていた。「暑いなぁ!今日は泳ぎにでも行こうかなぁ!」と思いながら、朝食後の一時をゆっくり寝転んで新聞を読んでいた。すると、ラジ […]

広島原爆, 被爆者の声

原子爆弾被爆体験

別府市  はやま とおる 昭和20年8月6日午前8時15分。 世紀の一大惨事が広島に起きた。その日も良く晴れた暑い朝であった。早い人は既に勤務場所に着き、大半の人々は出勤途中であった。家庭では朝の片付けが終わった頃だった

広島原爆, 被爆者の声

世紀の嵐

大分市  大城 仙助 1 嵐の前の静けさ 昼夜の別なくあの不気味なサイレンの音が、今日も街にも村にも一斉に響き渡っている。祖国の姿は日を追って苛烈を極めていた。見つめる新聞の記事にも何一つ明るいものはなく、ただ情報を伝え

広島原爆, 被爆者の声

広島原爆の追憶

大分市  安東 二三子 今思い出しても戦慄を覚えるあの日。昭和20年8月6日の惨事は終生忘れることができません。当時私方の家族は、広島市の吉島町官舎に住んでいました。20年に入って敗戦の気配も感じられ、本土空襲も激しくな

広島原爆, 被爆者の声

原子雲の想い出

大分郡庄内町  幸野 真一 魂の底から呪いの手でかき回すような不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響き、何度かの非常呼集が夜がやっと明けた。 昭和20年8月6日の朝、広島市のその日は朝から焼けつくような暑い天気だった。警戒警

広島原爆, 被爆者の声

原子爆弾もうごめん

大野郡三重町  宮崎 輝男 また、今年も41回目の平和記念日が近づいてきました。「喉もとすぎれば熱さ忘れる」と昔からの諺にもありますが……。戦後41年、この前の週刊誌に、米国のレーガン大統領は「原子爆弾を広島、長崎に使用

広島原爆, 被爆者の声

私の被爆と、三宅家の惨状

竹田市 山岡親(旧姓金丸) 私は昭和20年1月26日から、広島市段原町広島女子商業学校を隊舎とした、船舶砲兵団司令部無線通信教育隊に勤務していた。ここには通信隊二百名と衛生隊五十名がいました。私は2月上旬、南蟹屎町の三宅

広島原爆, 被爆者の声

被爆体験

日田市  足立 義勝 私は、当時本社が福岡にありました九州飛行機株式会社の検査課、外注検査に勤務しておりました関係で、会社の命により広島に出張することになりました。17歳のときです。 出張所は、広島駅より歩いて七、八分程

広島原爆, 被爆者の声

夏になると思い出す

中津市   岩久 義高 戦中派育ちには色々な体験がある。昭和20年8月7日、この日は私にとって生涯を通して最も長い、そして暑い一日であった。8月7日それは広島に原爆が投下された6日の翌朝でもある。私は大阪城の遠望できる八

広島原爆, 被爆者の声

私と原爆

大分市 岡田 實  ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア被爆者と叫び続けて、四十年が過ぎました。広島、長崎に投下された原子爆弾は、一瞬にして七十万人が被爆し、そのうち二十万人が殺されました。生き残った人々も後々まで放射能

広島原爆, 被爆者の声

私の被爆体験記より

中津市  重松 孝一 私は暁部隊指令部直属の西部第87部隊と仮称する覆面秘密部隊に所属する薬剤中尉であった。警戒警報発令中将校室で、上着を脱ぎ軍刀もはずして、昨日まで行った特殊潜水艇による、潜水演習の報告書の作製に取り掛

広島原爆, 被爆者の声

丹那収容所

中津市   黒永 三郎 8月6日午前5時半、昨夜来の空襲警報解除、燈火管制下、真夏酷暑、茄だるような夜中、待望の夜明け、市民は身心ともに解放、朝げの準備、活動開始、穏やかなスタート。 運命の8時15分、ピカッと閃光、ドー

広島原爆, 被爆者の声

私の被爆体験

大分市  吉田  助男 1945年原爆投下当時、私はソ満国境の警備隊から転属で広島の船舶整備教育隊に入った29歳の技術准士官であった。営外居住のため早速妻を連れて東観音町に家を構え、そこから宇品まで電車、それから船で約2

被爆者の声, 長崎原爆

あの日長崎の空

東国東郡国東町 田口 通 原爆被爆体験から41年の歳月が流れましたが、昭和20年8月9日、あの悲惨で残酷な長崎の空を思い出すと、心が痛み背筋が寒くなる気持ちでいっぱいです。しかし被爆体験の実相を語り訴え、子供や孫たち、ま

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