大分県被団協

長崎原爆

あの日長崎の空

東国東郡国東町 田口 通 原爆被爆体験から41年の歳月が流れましたが、昭和20年8月9日、あの悲惨で残酷な長崎の空を思い出すと、心が痛み背筋が寒くなる気持ちでいっぱいです。しかし被爆体験の実相を語り訴え、子供や孫たち、ま

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原爆に想う

東国東郡国東町  吉武 正 私は大分の歩兵第47連隊に現役兵として、入隊し、日中戦争に従軍しました。そして中部方面の戦闘で負傷し、現役を除隊しました。 昭和16年に大東亜戦争が勃発し、召集を受けて再び従軍しました。部隊は

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被爆体験

速水郡山香町  岡部輝代人 8月9日朝からの上天気で、真夏の太陽は燦々とふりそそいでいた。第三課業始まって間がない11時頃、強烈な青白い閃光が目にパチッと走った。幸い屋内であったので無事であった。この閃光は今でも鮮明に覚

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私の被爆体験

別府市 永野 博 私は当時、長崎造船所の養成工特習科生(18歳)として、工作機械の工法を学んでいました。寮は飽の浦の山間部にあり、そこから毎日工場、学校に通っていました。 8月9日は登校日で、寮生全員が朝7時に寮長の訓示

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私たちの被爆体験

中津市 小宮龍松・トシエ 1945年8月9日長崎に原爆が落とされたが、当時私たちは長崎市上筑後町44番地(爆心地より2.6キロメートル)に住んでいた。私は35歳で妻は31歳、子供は長女7歳、次女4歳、長男1歳であった。

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戦争の悲しみは、何時までも残る

大分市  結城  美智子(旧姓堤田) 私は幼稚園の時に父を戦争にとられ、母と1歳上の姉と4人の弟妹がいました。 昭和18年の事です。この頃より戦争は激しくなって衣料品は切符制となり、運動靴も学校でクジ引き、私はクジ運が弱

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長崎の日

長崎の日 直入郡久住町 幸重三治 大地が瞬時にして火の海と化した強烈な爆弾、それは昼間の何十倍、いや何百倍とも言えるほどの明るさでした。私は昭和18年3月、三菱長崎造船所養成工として入社、電機艤装工場商船係吉村組の配属と

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私と原爆

大分郡庄内町   工藤  淳 昭和20年8月9日、その日は、朝から一天片雲のない快晴であった。 私は事務室で書類を整理していたが、突然ピカッと稲妻のような閃光と、殆ど同時にドカンと物凄い爆音に似 た音がした。瞬間、同室の

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8月9日

大分郡湯布院町   伊美 弘吉 今年は長い梅雨で、7月の下旬にやっと明け、急に暑い夏がやって来ました。やがてもうすぐ8月です。8月になると忘れもしません、あの41年前の8月9日、長崎市に原爆が投下された日です。あの悲惨な

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この体験を子等に話す

大分市  首藤利久 プルトニウム239の原爆が投下された長崎は、昭和20年8月9日午前11時半を境にして、一瞬にして荒漠たる廃墟の町と化した。 私は現役兵として、同年7月15日に長崎高射砲第134連隊に入隊した。この日こ

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被爆体験

大分市  上柳田キミ 昭和20年8月9日、長崎市に原爆が投下された当時の事は、思い出すことさえ嫌で、胸が一杯になります。 しかし、思いを新たにするのも、命日を目前に控え、亡き主人の供養になるのではと、拙いペンをとりました

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被爆40周年「長崎被爆」

被爆40周年「長崎被爆」 大分市 川崎カズミ  私は、長崎で被爆しました。今年は被爆40周年に当たりますので、被爆体験を記録してみました。  学校卒業と同時に徴傭され、爆心地から約1キロの大橋町長崎三菱兵器製作所で、魚雷

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あの日あの時

あの日あの時 別府市 岡野芳香  昭和20年8月9日午前7時、工場の作業開始の時報と共に、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴る。工員たちは蜘の子を散らすように先を争って防空壕に待避した。我先にと待避したのも無理はなかった

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暗黒の原爆 ー 長崎の空

暗黒の原爆 -長崎の空 別府市  中村常俊  腕をさし出して掌の幅、前方の対岸に見えるクリスチャン殉教の島、天草の上島、下島−  有明海の早い瀬戸の海を挟んで、暁旅団中山中隊は、島原半島の突端、丘陵地域の中腹にある「早崎

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特別救援隊

特別救援隊 下毛郡山国町 竹内 博  被爆四十年、今や我国の経済文化は欧米並み、それ以上のものがある。恵まれすぎた国民は、あの残忍極まる被爆の教訓を素通りしているような気がしてならない。テレビ、文化、マスコミ等は核の恐ろ

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広島原爆

閃光に想う

佐伯市  菅 修  昭和20年8月6日は、朝から雲一つ無い快晴で、外はぎらぎらと太陽が照りつけていた。「暑いなぁ!今日は泳ぎにでも行こうかなぁ!」と思いながら、朝食後の一時をゆっくり寝転んで新聞を読んでいた。すると、ラジ

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原子爆弾被爆体験

別府市  はやま とおる 昭和20年8月6日午前8時15分。 世紀の一大惨事が広島に起きた。その日も良く晴れた暑い朝であった。早い人は既に勤務場所に着き、大半の人々は出勤途中であった。家庭では朝の片付けが終わった頃だった

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世紀の嵐

大分市  大城 仙助 1 嵐の前の静けさ 昼夜の別なくあの不気味なサイレンの音が、今日も街にも村にも一斉に響き渡っている。祖国の姿は日を追って苛烈を極めていた。見つめる新聞の記事にも何一つ明るいものはなく、ただ情報を伝え

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広島原爆の追憶

大分市  安東 二三子 今思い出しても戦慄を覚えるあの日。昭和20年8月6日の惨事は終生忘れることができません。当時私方の家族は、広島市の吉島町官舎に住んでいました。20年に入って敗戦の気配も感じられ、本土空襲も激しくな

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被爆の証言 ― その底辺から視点をかえて

大分市  後藤博彦 被爆の悲惨さ、その残酷さの実態や真実は、すでに戦後42年の間に、言葉として語り継がれ、文字として書き尽くされ、そして映像としても描かれているので、私は私なりにアングルをかえ別の面にスポットをあててみた

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原子雲の想い出

大分郡庄内町  幸野 真一 魂の底から呪いの手でかき回すような不気味な空襲警報のサイレンが鳴り響き、何度かの非常呼集が夜がやっと明けた。 昭和20年8月6日の朝、広島市のその日は朝から焼けつくような暑い天気だった。警戒警

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原子爆弾もうごめん

大野郡三重町  宮崎 輝男 また、今年も41回目の平和記念日が近づいてきました。「喉もとすぎれば熱さ忘れる」と昔からの諺にもありますが……。戦後41年、この前の週刊誌に、米国のレーガン大統領は「原子爆弾を広島、長崎に使用

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私の被爆と、三宅家の惨状

竹田市 山岡親(旧姓金丸) 私は昭和20年1月26日から、広島市段原町広島女子商業学校を隊舎とした、船舶砲兵団司令部無線通信教育隊に勤務していた。ここには通信隊二百名と衛生隊五十名がいました。私は2月上旬、南蟹屎町の三宅

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被爆体験

日田市  足立 義勝 私は、当時本社が福岡にありました九州飛行機株式会社の検査課、外注検査に勤務しておりました関係で、会社の命により広島に出張することになりました。17歳のときです。 出張所は、広島駅より歩いて七、八分程

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夏になると思い出す

中津市   岩久 義高 戦中派育ちには色々な体験がある。昭和20年8月7日、この日は私にとって生涯を通して最も長い、そして暑い一日であった。8月7日それは広島に原爆が投下された6日の翌朝でもある。私は大阪城の遠望できる八

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私と原爆

大分市 岡田 實  ノーモア広島、ノーモア長崎、ノーモア被爆者と叫び続けて、四十年が過ぎました。広島、長崎に投下された原子爆弾は、一瞬にして七十万人が被爆し、そのうち二十万人が殺されました。生き残った人々も後々まで放射能

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私の被爆体験記より

中津市  重松 孝一 私は暁部隊指令部直属の西部第87部隊と仮称する覆面秘密部隊に所属する薬剤中尉であった。警戒警報発令中将校室で、上着を脱ぎ軍刀もはずして、昨日まで行った特殊潜水艇による、潜水演習の報告書の作製に取り掛

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丹那収容所

中津市   黒永 三郎 8月6日午前5時半、昨夜来の空襲警報解除、燈火管制下、真夏酷暑、茄だるような夜中、待望の夜明け、市民は身心ともに解放、朝げの準備、活動開始、穏やかなスタート。 運命の8時15分、ピカッと閃光、ドー

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私の被爆体験

大分市  吉田  助男 1945年原爆投下当時、私はソ満国境の警備隊から転属で広島の船舶整備教育隊に入った29歳の技術准士官であった。営外居住のため早速妻を連れて東観音町に家を構え、そこから宇品まで電車、それから船で約2

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想い出

速見郡日出町  木付 薫山 私は、昭和20年8月6日、広島市に落とされた原子爆弾により被爆し、家族四名を亡くしました。当時31歳であった私唯一人が生残り、今もなお過去の想い出に苦しみ続けている者です。毎年8月が近づくと、

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